満腹

空腹も忘れて

今日はなかなか進んだ方じゃないですかね。個人的にはそういう気分に浸ってます、テスト週間に。

思い出して、書き出せばなかなか濃度のある一日だったことがわかります。 普段、朝は彼女とその可愛い友人との3人で院試の勉強をすることがあるんですが、今日はそんなことできなく独り昼過ぎに起きて、なくなく授業に出ました。 友人から過去問を入手し、悦楽に浸りながら残りの実験課題を授業中に進めました。

先週からどうしても取れないバグに遭遇していて、今週も憂鬱に終わるのかとどんよりした気分だったんですが、友人に質問したところアドバイスを頂き、そこから再び数時間かけて終わらせ杞憂に終わりました。相変わらず友人には恵まれているなあと感嘆してました。

その直後、研究に必要なプログラムを書くためにライブラリの理解をする必要があったのですが、空腹も忘れて1時ぐらいから現在5時までぶっ通しで勉強して、ある程度要約できるようになったので非常に満腹です。

強いて悔しいと言えば、最近勉強したい数学がなかなか手につけていないことですかね。好き好きと言いながらも時間がなければ会わない。それは本当に好きなんですかね。必要だから会いに行くなんてまるで淫らな関係のようだと、自分の数学感に対する不道徳さに悔しさを覚えます。 理解できれば面白いことはわかっています。しかし、ペンが動かない。活字が読めない。 あとすこし悲しかったのが、一生懸命ノートに写して覚えた(例えば)ダランベールの判定法など忘れてしまってることが非常に悔しいです。人間って負けることも悔しいですが、忘れてしまうということが最も悔しいんじゃないかって思います。どうですかね。

下らない話なんですが、プログラムのデバッグ用にコアダンプを出力するようにしてたんですが、40GBぐらい食われていることに気付かずにマルウェアに感染されたのかと慌てて学校指定のセキュリティソフトを入れてスキャンしました。これも杞憂に終わったんですが、今日は慌てることが多い日だった分、進捗に満足できる日でもありましたね。

心がけ

骨組み

今更気付いた不甲斐なさをまとめようと思います。

私は大きなプログラムを読むときや、数学の問題や証明を読むときに私は漠然と全体がどのようなことをしているか理解しようとしてるように思います。結果から言えば時間がかかります。 似たようなものに、骨組みから理解して肉付きで理解していくという手段がありますが、こちらは読解力に大きく貢献するような気がします。 正直大学3年生になってようやくそんなことに気付いたのかと情けなくなったのですが、重要そうなので備忘録として書いてみました。

努力は報われにくい

芋づる式

努力というものは、報われやすい人間と報われにくい人間がいます。これは運が良いとかそういう話ではなくて、単純に地頭の良し悪しや思考力想像力に起因すると思っています。そして、私は圧倒的に想像力や思考力が欠けた凡人で、努力が本当に報われにくいです。努力は人一倍してきたつもりですが、なかなか芽が出てきません。

正直そんな自分に嫌気が差すときが多く、自分より努力してなく成果も出ていない人を見ては嘲笑うようなことをしてきました。私は意識せずにやってしまうような人間です。彼女に注意されるので、少しずつ改善してるとは思いますが。

しかしこのような私にも時々、小さな転機が訪れることがあります。それはやり続けていると、ふと一気に今までなんのことかわからなかったことが芋づる式で理解できるようになるのです。そしてようやく今まで努力をし続け、やめなかった自分を褒めることができるのです。

そこに至るまでに非常に長い時間を要しますが、一つだけ言えることがあります。努力が報われやすい人間の特徴は先述したとおりですが、報われにくい人間にも「頭と手を動かす」ということが不足してる場合があると思います。気付けば手か頭のどちらかしか動かしてない時が多々あります。これだと、漠然と「こうなのだろうか、ああなのだろうか」と思考するばかりで、その問題だったりライブラリの本質に近づくことができません。逆に頭をからっぽにして写経ばかりするだけでもなかなか身につく感覚はありません。

友人に言われたことに、数学の定義を丸暗記するのではなく、次に出てくる定理や問題を解く際にきちんと思考することが重要だということがありました。私の彼女も同様なことは言っていて、定義の丸暗記じゃなくて問題とか前後で覚える、のような。強いて言えば彼女は私より地頭が良いのでそのようなことが言えるのだろうなと思います。

努力は報われない場合が多いし、多少の努力で大きな成果を獲得するような人間を恨みたくなることも多々ありますが、私はこのようなことをし続けるのだろうと思います。本当に悔しいですが、私が人より努力をしなければクズに戻ってしまうだけなんです。

たった今

一歩

今回も例によってポエムを書いていきます。ポエムを書くのは気分が悪い時と気分が良い時に限ってます。今日は三連続ポエムを投稿してるわけですけど、私はよっぽど感情の起伏が激しいことが伺えますね。まあ、今回を除く前二つは少し自信を失って、自分を奮起させるために書いたものでした。そして深夜5時になって書いたプログラムが上手くいってくれてまた興奮してるわけです。

有名でもアルゴリズムがそこまで複雑じゃないものは自分で実装することができるのですが、ある程度、ライブラリに頼る必要のあるプログラムになると途端に礼儀作用のような何かがわからなくなり、第三者が書いたプログラムを写経してなかなか自分のものにできない気がします。

今回は、今までと違ってきちんと納得できる形で動かせたので非常に歓喜しています。上手く行ってよかった。 なぜそこまで嬉しいかというと、研究室に入って一週間ぐらい経つのですが、任された仕事がありまして、それを熟すために今回書いたものをある程度深く理解する必要があったのですね。そして、小さな一歩ながら踏み出せたので非常に嬉しいというわけです。

彼女に言おう。きっと一緒に喜んでくれるはず。

Not Afraid

怖い

私はお化け幽霊、海外のホラー映画に全く恐ろしいという感情が芽生えないです。先日彼女とITを観に行きましたが、彼女は途中恐怖のあまり泣きじゃくり途中退出をするなか私はあくびをしながら最後まで鑑賞しました。

そんな私にも怖いと感じることが多々あります。

成長しようとすることです。成長すること自体ではありません。

これまた先日、彼女と家でマディソン郡の橋という1995年の映画を観ました。(私が生まれる前の映画…) 恐怖の文脈からすると如何にも怖そうなタイトルに見えますが、複雑な純愛の物語です。Clint Eastwood演じる主人公のロバート・キンケイドとMeryl Streep演じるヒロインのフランチェスカ・ジョンソンのたった4日間の短い恋愛をする映画でした。内容は自ら観てほしいですが、ロバートの「これは生涯に一度きりの確かな愛だ」というセリフなどが非常に心にグッとくるものがありました。

初日から心を打ち解ける二人が描かれるのですが、ヒロインのフランチェスカが中々、ロバートと結ばれることに怯えているシーンで、ロバートが「成長することは怖い」という節がありました。(正確なセリフは覚えてません) フランチェスカは夢見てイタリアの田舎町からアメリカに出てきたわけですが、様々な柵もあり成長することに躊躇ばかりしていました。そんな彼女に向かってロバートはこのようなセリフを吐くものだから、フランチェスカも憤りを見せるわけです。

私もこのフランチェスカと同じです。成長は後に感じられるものだから、その前の一歩踏み出すが勇気ではなく、恐怖なのです。特に私は「数学の例題・章末問題を解く」「論文を読む」「学んだアルゴリズムをプログラムに書き起こす」ということが非常に怖いです。

これは私だけの感情です。友人にこの事を話しても、億劫であっても恐怖は感じないと言われました。さっき私が書いたことは私にとって大きな進歩に繋がることは確信できます。しかし、それをした時に”できなかったら”と思うと思わず目を逸らして次のことをしてしまおうとします。それも大概無意識に。これが厄介なんです。

もし数学の問題に取り組めたとしても、「何を答えれば良いの?」となり本来、著者が解答させたい問題の意図や様々なものが見えてきません。

未だに解決策は見出だせてません。しかし、徐々に数学に触れることは以前ほど恐怖しなくなりました。演習のみを取り扱うような本もあり、詳細な解答も記載されているからでしょうか。このような条件のもとでしかできないというのは非常に情けない話です。

徐々に変わっていきたいですが、何をどう変わっていけばいいのかずっと分からずにいます。

私の彼女は非常に優秀で、少しずつアドバイスをくれます。次元とか大きいものは小さくして考えてみると良いとか、答え見た問題はその日にでも解き直すとか。いや、答え見た問題10分後ぐらいに忘れちゃうバカなんです…ごめんね……。

努力をしてないわけじゃないんですけど、本当に苦手なことが苦手です。けど、言い訳せずにがんばって行きたいです。

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はじめまして

はじめまして

大学に入ってもう2年と半年経つんですが、なかなか文章を書く機会がなくて、語学力の低下を感じつつあります。 文章を書く機会を増やす名目でこのブログを始めてみようと思いました。

いきなりですが、私はオタクの一種に位置づけられる人間だと思います。 しかしながら最近になってオタクとしての素質が自分にあるのかどうかすらわからなくなりつつあります。

常々オタクであることに成長が伴うか否かで議論されてますが、私は伴うべきだと考えてます。 人間には、というと主語が大きすぎるので私個人限定で考えても、私は生きてる限り成長する義務があると思っています。 オタクというのは言い換えれば、あることに精通している人で、彼らはアニメ・マンガのような二次元創作に対してだったり、プログラミング・数学のようなアカデミックなものに対してだったりと、局所的な知識を長い年月かけて身につけていく辛抱のある方のように思えます。 "No.1 < Only One"が叫ばれる世の中でこの局所性は非常に価値があり、追求し続けるべきかなと考えてます。

成長が抽象的でこの言葉を忌み嫌う人は多く居ますが、文脈によって成長の意味は変わるので、ある意味で抽象的で個人的に好きです。

なぜ成長という言葉が好きで、成長を義務と感じつつも、成長できてないのか、そんな第三者からすれば下らないようなことに葛藤しているかということを日々の生活の一部を交えてこのブログに書き連ねたいと考えています。

少しばかり抽象的な言葉である成長に、できてないという言葉を使っているのは、成長できているのかできていないかの自分自身で振り返ることができてないからなのだろうかとも思っています。要は、社会や自身との対峙から自分が思う成長ができている可能性があるのに、気付かずに歩み続けてるかもしれないということですね。

しかしまあ、葛藤や嫉妬というのは憤怒に変わることもしばしばありまして、彼女にそれをぶつけたり不貞腐れして一日中寝てみたりと我ながら小さな人間だと思うのですが、この葛藤が私を人間たらしめる良い物を持ったとふと思うことがあります。

ということで話も収束しなさそうなので、プログラミングオタクと呼べるほどの者でもない私が少しずつ、学んだことやアニメについて思ったことや何かを駄文としてインターネットに放出したいという意思を最後にまとめたいと思いました。

ありがとうございました。